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故きを温めて(桶中の歴史)

 昭和48~50年度の学校行事・生徒会行事を掲載します。泰山木の中で文章や写真で読み取れるものだけですので、それ以外にもあったら教えてください。現在も続いているものもあれば、授業時数の確保や安全の視点等から実施不可能になったものもあります。

・校外学習※遠足的なもので、少年自然の家等へ

フォークダンス集会

・スポーツテスト

臨海学校(1年)※水質悪化で昭和48年を最後に中止

・林間学校(2年)※箱根方面

・修学旅行(3年)※京都・奈良

・体育大会

いも煮会

・水泳大会

・文化祭(校庭でファイヤーストームというキャンプファイヤーのようなことも行っています)

・研究授業

・写生会

・競書会

・集団行動、バレー、バスケ、陸上、なわとび、サッカー、スピードボールの各学級対抗大会

うでずもう大会

弁論大会

百人一首大会

・新聞コンクール(広報委)

・美化コンクール(環境美化委) 

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 昭和50年、本校における生徒集会は、すでに10年間続き、合計200回を迎えようとしていました。生徒たちが工夫して、生徒会活動に工夫を凝らし新たな取組をしています。その1年分のテーマが残っているので紹介します。

 ※( )のクラスが中心となって運営したようです。

第182回(3A)校内のあいさつについて

第183回(3B)清掃状態のあり方

第184回(3C)フォークダンス集会

第185回(3D)男女交際について

第186回(3E)桶中生の校外生活のあり方

第187回(2A)文化祭・体育祭を終えて

第188回(2B)歌声集会

第189回(2C)テレビの影響

第190回(2D)研修会について ※毎年自主参加の研修会を開催していました。

第191回(1A)歌声集会

第192回(1B)先生から見た桶中生、桶中生から見た先生

第193回(1C)1年間をふりかえって

第194回(1D)卒業生を送る集会

 年間13回も生徒の手による自主的な集会が開催されて素晴らしい状況だと思います。一方で本部役員は感想として、次のように書いています。

 「今の桶中の生徒集会は、内容的に低下しつつあるといわれています。確かにそういわれてもやむを得ない例もあると思います。生徒集会は主催するクラス全員の関心が高く、参加する側にも積極性が必要です。いくら内容が充実していても、参加者を引きつけ一つにしなければ意義ある生徒集会とは言えないでしょう。全校生徒が一つの問題を一体となって考え、その結果が効果となって表れるようにしたいのです。」

 自治的な意識の高さとその行動力に感心しますね。

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 昭和45年の体育委員長の記事によると、当時、次のような行事が例年行われていました。

4月 集団行動競演

5月 クラス対抗陸上競技大会

7月 クラス対抗バレーボール大会

8月 水泳実施

9月 クラス対抗水泳大会

10月 体育祭

11月 スポーツテスト実施

12月 クラス対抗バスケットボール大会

1月 マラソン大会

2月 サッカー・スピードボール大会

 当時は、クラス対抗のスポーツ大会を「クラスマッチ」と呼んで、1年を通してスポーツに取り組み、体と心を鍛えていました。体育委員会が学校行事に主体的にかかわり、特にクラス対抗の行事は生徒の手で主体的に運営するのが基本でしたので、年によって種目が変わることもありました。

 これ以外に部活動では、春の学校総合体育大会、秋の県民体育大会があったので、非常に忙しかったのです。

 体育の服装は、男子は白色ランニングシャツと短パン、女子は半そで体操着とブルマという服装です。ただし、冬には長そで体操着とトレパン(長い丈の白色トレーニングパンツ)も可能でした。

 

 

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 泰山木21号は昭和47(1972)年度に発行されました。

○桶川市の黒田教育長は、次のように書いています。

 「四季色とりどりの花咲く学園(中略)生徒のみなさんは、明朗快活、礼儀正しく生気みなぎり、あすへの夢を大切にする。先生方は、生徒ひとりびとりを正しく理解することにつとめ、日々最善の努力をする。『埼玉県に桶中あり』という結果になるのは当然である。このような学校を卒業されるみなさんは、誠にしあわせであり、桶中の卒業生であるという誇りと勇気をもって行動してください。」

○PTA会長は、次のように書いています。

 「桶川中学校は素晴らしい学びやであると思う。先生方が自らスコップをにぎり校庭に飛び出す、その指導性と熱意、そして生徒会の皆様が、手入れを怠らず、常に創意と工夫をもって環境作りに、先生と生徒会が一丸となってやるので、四季の美しき花が咲き乱れ、校庭の前の古い門柱を利用しての、あの立派な国旗掲揚塔が、自分たちの手で造り上げた、その偉大さ、素晴らしさこそ、桶川中学校の教育の充実であり、発達ができることをかたく信じます。」

○生徒会長の田中さんは、次のように書いています。

 「よく『日本のよさは(悪さ)は、日本の外に出てはじめてわかる』といいます。(中略)これは、『桶中』『生徒会』『委員会』であっても同じことがいえると思います。委員会を例にすると、各委員会では、活動を活発にしようといろいろと考え行動しています。けれども周りの人はそのことがそのままわかるとは限りません。それは委員が委員の立場からだけ考えてその他の人の立場にならないから起き、その逆に、委員でない人は委員会の活動を知ろうとしない。そんな気持ちから食い違いになるのではないでしょうか。お互いの立場から考えられると素晴らしいと思います。それをそのままにせず、委員会などで意見を発表しあう、そうなりたいものです。(中略)もう一度生徒会というものを見直して、自分なりにできることを、生徒会にぶつけてみようではありませんか。生徒全員の力による生徒の生徒会を!」

 

☆当時は、戦後始まったGHQによるPTA、生徒会といった組織の活動開始から二十数年が経ち、全国くまなく普及していました。桶中は、生徒会活動を先進的に研究・実行し、昭和43年には2回発表を行い、県内各地から合わせて43校約350人の視察者(教員・生徒)がありました。一方で活動内容の刷新や主体的な参加が課題になっていました。

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 昭和30年度発行の泰山木第4号には、巻末に協賛企業(というよりも商店)が掲載されていて、当時は予算化が十分でなく商店からの援助によって発行できていたことがわかります。

 昭和30年度(70年前)の泰山木に掲載されている協賛企業が興味深いので紹介します。

(※掲載順です)

・高砂屋書店 ・岡野栄泉 ・小髙兄弟商会 ・黒須洋品店 ・大隅自転車店 ・山口呉服店 ・マイト商会 ・臼田製麺所 ・ひまわり堂 ・大室商店 ・稲葉屋支店 ・キクヤ洋品店 ・岸時計店 ・栄屋菓子店 ・矢島時計店 ・盛和堂 ・秋元食料品店 ・増田薬局 ・廣田金物店 ・上肉店 ・黒須帽子店 ・関口ラジオ店 ・大塚屋洋品店 ・サワヤ酒店

【地域の商店に感謝】 

 この中の半分ほどのお店が現在も中山道や駅前で商売をされています。長く地域の生活を支えているお店です。桶川中の歴史を紐解く観点から「故きを温めて」として書いているHPですので、当時から本校を支えてくださっていた多くの方々に改めて感謝いたします。

【キャッチコピー】

 この商店の広告に添えられた一言が素敵ですし、時代をよく映しているのでご紹介しておきます。

・呉服と服地と注文服 捧げる感謝 惜しまぬ奉仕 山口呉服店 (見事なキャッチコピーです!)

・たばことお菓子 駅での待合は当店で 大室商店 (主流は蒸気機関車で1時間に1本程度、直前に改札が開くまで駅前でタバコを吸いながら待っている光景が浮かびます!)

・栄養豊富な天ぷら揚げ物 秋元食料品店 衛生第一親切な店 (揚げ物は栄養豊富な料理なのです!)

・お父さんによいお酒を お酒飲むなら サワヤ商店 (お酒と言えばお父さん、そして中学校の生徒会誌の協賛に酒屋さんというのも時代を感じます!)

【電話】

 協賛のページに電話番号を書いている商店があります。

例えば、「黒須洋品店 電話10番」「岡野栄泉 電話71番」「岸時計店 電話308番」などです。調べてみると昭和30年代の電話は普及率が低く特別な存在でした。多くの家庭に電話はなく主な通信手段は電報でした。ちなみに昭和30(1955)年時点で電話の普及率はわずか1%で、電話のある家は商店などに限られていて、用事があるときは電話のある家に借りに行くのが普通でした。固定電話回線を引くことは一種のステータスで、黒須洋品店は桶川町で10番目に電話を引いた家ということです。さらに言えば、市外電話は、電話交換手を介さないと通話できず、全国一律に機械接続で通話可能になるのは昭和53(1978)年以降です。

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昭和46年度は、本校から桶川東中が分離した年です。当時の田島尚校長先生が「泰山木」寄せた文章です。

「今年度は、高崎線の軌道を境にして、新しく設定された学区によって、今までの桶川中は二つの学校に分離してスタートした。しかし、桶川東中は新しい校舎が翌年の3月に竣工される関係で、桶川中の中に桶川校舎として設置された。したがって、同じ校地内に二つの学校が存在して運営されるという変則的な1年間であった。」

「年度当初、校地や校舎の使用や、行事や部活動、生徒会運営等で問題が多く、試練の年になると懸念されていたが、両校の先生方・生徒の皆さんが互いに不自由を忍び、助け合って勉強や運動にあたったので予期に反して充実した意義深い年になった。」

「生徒会については、前期は両校の合同で行われたが、後期はそれぞれ独自の計画を立てて行われた。部活動では、サッカー部が県民体育大会で伝統的に強い浦和・児玉・秩父勢を破って優勝を遂げたことや、野球部が第3位に食い込んだことが素晴らしい。また、文化祭・体育祭の成功等は桶中生徒会の真価を遺憾なく発揮したものと言える。このような好結果を生んだ最大の要因は、諸君ひとりひとりが伝統的精神をうけついで、学校を愛し、生徒会の発展を心から願って努力した結果である。そしてまた、熱心に指導にあたった先生方や生徒会の役員、3年生の努力を忘れてはならない。」

「桶川東中は加納校舎と合併し、新しい学校づくりの動きの中で、生徒会則を作り、組織を整えてください。桶川中も生徒会全体のみなおしを行って新しい出発としてもらいたい。」

 

桶川東中学校開校の年は、校舎建設が間に合わずに1年間本校の敷地に2つの学校が存在していたのですね。校長も生徒会長もそれぞれの学校にいましたし、桶中は1年A組、東中は1年1組という名前でした。

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昭和45年度に発行された「泰山木第19号」にある3年生の文章を紹介します。当時の世相を反映した文章で生徒たちも「公害」を身近なものと捉え真剣に考えていたことがわかります。(一部省略しています。)

「今年は終戦から23年目にあたる。その間に焼け野原だった東京に高層ビルが立ち並び、それを縫うように道路が走る。大都市を結ぶ高速道路もできたし、東京・大阪間も新幹線によって短時間で行き来できるようになった。また、全国各地に新幹線を設ける計画もあるという。テレビなどで見る終戦当時の映像からは考えられない世の中へと変わった。」

「しかし、そのための公害も数限りない。おかしい。何かが狂っている。我々日本人の築き上げた文化のために私たちが悩んでいるなんて。そんなことにはおかまいなしに、テレビ・新聞では、交通事故、大気汚染、殺人事件を伝えている。」

「田んぼや畑の静かな土地に高速道路が走り、工場が立ち並び、青く澄んだ空は日増しに黒ずみ、川も汚れ悪臭を出す。学校は騒音で授業にならず、喘息持ちの子が増えていく。これが都市化ということなの?」

「現在、大阪では万博が開かれている。そのテーマは、『人間の進歩と調和』で、私も見学して素晴らしい人間を味わった。どの企業館にも『世界最大の・・・』『世界初の・・・』があり、動く歩道や巨大パビリオンとともに、経済大国として成長した日本を私に感じさせてくれた。」

「しかし、この素晴らしさの裏には、前に述べたひどい日常がある。文明の発達のためにと、ひどい毎日に目を向けない大人もいる。そのことをどう思っているのだろうか。間違っていないと思っているのだろうか。」

「21世紀の戸は間もなく開かれる。その時に日本はもっと発達していることだろう。戸を開くのは私たちである。そのエネルギッシュな若さの力で青い空や川を取り戻せるのは、わたしたちのほかにはいない。私たちが手を取り合って『美しい日本を!』と、叫ぶ日もそう遠いことではないだろう。」

 

当時の時代背景

○終戦後23年を経て東京オリンピックも終わり復興が進んでいる。

○アジア初の万博が大阪で開催され、修学旅行で見学した。

○「公害」が国内で最も大きな問題となり連日報道が絶えない。

○昭和42年公害対策基本法制定

○昭和46~48年四大公害病裁判

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生徒の文章をなるべく原文に沿って書き、わかりやすいように要点をつないでいることをご承知願います。

○1年生は、臨海学校に行っています。読んでみると3泊4日で、千葉県の岩井海岸へ列車で行ったことがわかります。

「7月21日、その日は臨海学校でした。翌朝早くに起きて桶川駅に着きました。長いこと列車にゆられ千葉に近づいてくると、青々とした海が見えてきました。何とも言えない光景でした。」

「やっと岩井に到着しましたが、みんなくたびれているようでした。しばらく歩き、海の家へ着きました。少し休んでから海岸で泳ぎました。砂浜は太陽の光線でじりじり焼け歩けないほどでした。」

「泳ぎ終わると夕食の時間でした。おかずはましなのが出ませんでした。去年の時と比べればずっといいかもしれませんが・・・。夕食が終わって自由時間です。わたしのクラスは、海岸に散歩に行きました。消灯時間になると、かやをつりました。」

「翌日、9時ごろからまた泳ぎました。10時におやつが出ます。おやつといっても牛乳だけです。その夜はしたん会でした。(※試胆会と書いて肝だめしのようなものです。)正直いって怖くてなみだが出ました。」

「23日の夜はキャンプファイヤーでした。クラスなどで出し物が出てとても楽しい時間でした。」

「翌日午後1時ごろ岩井を出発し、桶川に5時ごろに着きました。いつまでも楽しい思い出として心に残ると思います。」

 

○2年生は、林間学校で箱根登山をしています。

○3年生は、修学旅行で奈良・京都です。修学旅行列車若草号で往復し現地はバスで見学しました。

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昭和44年3月に発行された泰山木17号に「編集委員会で検討し、桶中に起こった十大ニュースを選び出してみました。」との記述があります。当時中学3年生だった生徒は、現在74歳くらいかと思います。さて、生徒が感じたその年の校内ニュースとは!

1 初の総合文化祭成功に終わる

2 ブラスバンド誕生

3 緑化コンクール全国入選

4 校内写生大会行われる

5 断髪令施行される

6 森・猪野先生ヨーロッパ視察旅行

7 水槽・小鳥かご各教室に置かれる

8 全クラスに石油ストーブ設置される

9 体操部夏の県大会に準優勝

10 演劇部・水泳部誕生

「泰山木」を読むと、「クラブ活動」と「部活動」の違いがはっきりと認識されていない時期だったようです。「各クラブの部長」という表現もされているし、「私たち〇〇クラブは・・・」と書いたり「私たち□□部は・・・」と書いていたりして、混然としていることからも分かります。

部長による活動紹介と思いが書かれているページには、男バレー、女バレー、男卓球、女卓球、野球、男バスケット、女バスケット、ソフトボール、サッカー、陸上、男体操、女体操、柔道、剣道、水泳、男テニス、女テニス、英語、美術、科学、ブラスバンド、読書、家庭、郷土研究、演劇が出ています。

当時、運動系17、文化系8、合計25のクラブ(部)活動がありました。生徒数886人

現在、運動系13、文化系4、合計17の部活動です。生徒数470人

生徒が今の2倍近くいる中で、活動場所の確保、自主的な運営、生徒の意欲の有無などに苦心していたようです。

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昭和31年3月に発行された泰山木第4号の編集後記に次のようにあります。

「今まで文集としてこの泰山木を三号迄毎年出して参りましたが、今年度は生徒会のすべての面の活動を収録しようとの意見から生徒会誌としての発行の運びとなったのであります。」

このようにして、第1号は高橋先生が作り、第2号は文芸部による文集という形で始まった「泰山木」は、昭和30年度第4号から生徒会誌となったことで、個人での文章・俳句・詩に加えて、全委員会・各部活の活動や思いが記録されることになりました。

昭和30年は終戦から10年です。三種の神器(電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビ)が流行語となり、敗戦から立ち直り豊かになり始めた日本の象徴でした。翌年には日本が国際連合に加盟することになります。

 

「卒業生アンケート」というページで、卒業にあたって1人1行の思いが書かれています。そこが時代を反映していて興味深いため紹介します。(名前は伏せます)

・世のため人のために役に立つよう努力する。

・個人主義でなく全体主義で生きたい。

・私は家庭主婦として正しくいきたい。

・世のため家のため親のため生きていきたい。

・ごく普通の何か人の役に立つ人間になりたい。

・先生の御恩に報いる様に一意専心に勉強にはげむ。

・早く技術を覚えて一人前の工員になりたい。

・強く正しくまじめに生きるつもりです。

・世界の中の人と大きな気持ちをもって生きていく。

・冬空の下に咲く山茶花の如く清く素直に。

・人並であって人並でない人間になりたい。

・大志を抱き強く雄々しく何事も誠を持って生きる。

・世の冷酷さにまけないうるおいある人生を欲する。

全員分を読んでみました。「正しく」「強く」「明るく」「清く」「負けず」「希望をもって」「生きぬく」という言葉が非常に多く出てきます。卒業生はわずか5歳ほどで終戦を迎えて、そこから中学校を卒業するまで、多感な時期に、国の在り方や教育の転換、厳しい食料や生活事情の中を生き抜き、平和で安心できる世の中になり始めた社会状況だったのを合わせて考えると、そういった言葉を誰もが大切にしていたことがうかがえます。

 

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